「朗読も特技の一つ」  武部良明 氏

 速記の教師となった以上、何か特技を持とうと考えた。
書く方では、とても生徒にかなわない。よし、読むほうで行こうということになった。等速の
高速度朗読、とうとう速記録の白いところで六千に達することができた。教室でも時々披露し
た。
 六千で読むには、どうするか。まず、明瞭度であるが、普通の人には大きな声で朗読すると
母音だけが大きくなり、子音が不明瞭になる。朗読度を維持するためには、子音をはっきり
発音しなければいけない。それには個々の子音の口の動きを自覚し、その特徴を強調する。
自分の口でありながらなかなか思うように動かないが、そこは訓練である。
 次に、母音であるが、普通の話し方は、子音の部分に比べて、母音のほうが著しく長い。
さらに母音を長くすれば全体に遅くなる。歌う場合に長くなるのも母音である。そこで、これ
を逆にすれば速度が速くなる。子音を縮めると不明瞭になるが、母音は長さを半分にしても
明瞭度を欠くことはない。これも訓練である。

 つまり、三千ニ百で朗読するときの母音の長さを半分にすれば、増加する子音を勘定に入れ
ても、六千に達するはずである。幸い養成所では、毎年きわめて遅い朗読から始め、だんだん
進んでいく。朗読の訓練には願ってもない機会である。
 ところで、理屈は以上のとおりであるが、問題は口の運動だけでない。目で見た文字を音声
化するのも大仕事である。普通の人は、本や新聞を読むときに黙読し、目だけで文字を追う。
音声化しないで直接意味を理解し、それで間に合わせれば、速度は幾らでも進む。
 これに対して、速記の朗読では、目で追う文字をすべて音声化しなければいけない。これに
は、下読みによる予習が必要である。まず、小さい声で、速度にかまわず読んでみて、必要な
ところに区切りや振り仮名をする。次に、ストップウオッチを見ながら四千ぐらい読んで
みる。そのあと、普通に声を出しての練習は教室での朗読にし、例えば三千ニ百で読む。
そうしてから、六千に挑む。ただしこれができるのは、漢字の少ない白いところに限るので
ある。

 問題は、等速ということ。ただむやみに速く読んだのでは、速記の朗読にならない。平素は
行数計算でよいが、反訳テストのときは15秒ごとの区切りにし、最初の15秒は特に細かく
5秒ごとにする。そうして符号の量に合わせて遅速を加減し、5秒ごとの調子を見ながら最初
の15秒で調整する。そうすれば、あとは時々ストップウオッチを見る程度、等速朗読が可能
である。
 そこで、高速度の場合であるが、六千となると5秒に五十文字も進むから、目が離せない。
右の目で文字を追いながら、左の目で秒針を見るより仕方がない。この状態は三千ニ百でも
同じであるが、ただ違うところは、秒針に焦点を合わせる暇があるかないかということで
ある。それでも、慣れてくると、ぼんやり見えるようになる。これも低い速度からの訓練の
おかげである。

 実をいうと、私の朗読には変な癖があった。それは、緊張すると声が震えることであった。
しかし、六千の自信つくと、三千ニ百でも息の使い方にゆとりができ、変に震える癖を克服
することができた。こうして生まれたのが、あの「武部調の等速朗読」である。

◆生徒寮の建設
 養成所の正門から入って奥へと進むと、右手に校舎が建ち、そのはす向いに三階建て鉄筋コ
ンクリートの建物が男子生徒寮で、竣工は昭和46年3月。構内の一隅にあった木造の職員宿舎
一棟を改築し、男子生徒寮としてスタートしたのが昭和43年4月であった。収容人数は12ー3
名と少なく、他方、数においてはまさる女子生徒は依然通所を余義なくされていた。
これらの点を是正するため新男子生徒寮建設に踏み切り、昭和46年3月31日に完成。
総定員は24名で、居室は洋室で左右対称に二段ベッドが据えられ中央に長テーブル、周囲に
は洋服ダンス兼用の押し入れ、ロッカー、書棚が配置された。学習室には暖房機が入り、その
他生活用具としての電気洗濯機、冷蔵庫も完備している。
 寮費としては、光熱水道費のみを毎月手当額から差し引いてるが、新男子寮については
月額800円(12月ー3月は900円)と定められた。

昭和53年当時の衆議院速記者養成所

男子生徒寮イラスト
小林仁志氏作成(62期)

◆健康管理とレクリエーション
 定期健康診断、予防注射など、職員同様に実施され、運動会や職員レクリエーション大会に
も一部参加している。その際、運賃負担軽減の意味で、本院の送迎用大型バスの使用が認めら
れ、さらに昭和51年からは、春秋ニ回の遠足の際もこのバスの使用が認められた。

 恒例の葉山洗心寮における夏季海浜訓練(二泊三日)も、職員と同一料金での利用が定着し
たが、もう一つの大きな行事である二年生の修学旅行については、入所と同時に手当の中か
ら一定の積立を継続しているものの、旅費・宿泊費の高騰に追いつけず、泊数を減らすか旅行
先を近距離に絞らざるを得なくなっている。

 一方、在寮生の日常生活において最も気がかりな問題の一つは食事である。
女子はおおむね近くのスーパーなどで食材を買い求め、規則正しい自炊生活を送っているが、
男子はとかく不規則な上、インスタント物とか外食に頼りがちになる。自炊すればかえって費
用が割高につき、時間もとられるのであろうが、栄養のアンバランス、家庭的団欒の欠如
など、不安材料はつきない。

 なお、在寮生の教養、娯楽を兼ねて昭和53年度に14インチ白黒テレビが二台購入されたが、
生徒用に供するのは土曜日の午後から日曜日及び祝日に限定し、勉学の妨げにならないよう
配慮している。

 ◆教授 (敬称略)
 ・宮崎幸雄【所長】 研修科(実務常識・様式・実習)
 ・大橋勘一【副所長・校務担当】 一年(文字・表記法) 二年(表記法・漢語)
                研修科(表記法)
 ・大西宏【研修科担任】一年(社会) 二年(社会・実習) 研修科(時事問題)
 ・宮田雅夫【教務・符号担当】一年(速記概論・速記法2) 二年(文章・速記史)
               研修科(フランス語)
 ・浅水信昭【二年生担任】一年(用字例・表記法) 二年(表記法)
 ・遠藤敏明【一年生担任】一年(用語) 二年(用語) 研修科(英語)

 衆議院に速記練習生の制度がはじめて設置され
たのが大正7年、昭和53年に創立60周年を迎ま
したが、平成18年に当養成所は廃止となりまし
た。廃止されちょうど10年目になり、「記録
として残したい」と考え、資料を元にこのペー
ジを作成しました。
 およそ38年前の昭和53年時の当養成所ついて
ご紹介いたします。当時のことを懐かしく思われ
る方が御一人でもいらっしゃれば幸いです。

当時の養成所周辺のイラスト。
61期の浜口直子氏の作品です。

 退職(昭和36年9月)にあたって、衆友有志の皆さんから、送別会を開いていただき、すでに
速記を離れて別の社会で活躍している卒業生まで集まって、当時非常な貴重品であった録音
機(ラジオ付)を恵贈されたのは、感謝、感激の極みであり、終生忘れることのできない思い出
である。
 あれから17年、その翌日から、録音機相手に、速記の実務を私はせっせと続けている。
一時は月に10−12時間もこなしたが、最近は、自分の歳のことも考えて、月に5ー6時間程度
に自己規制をしているが、余力は十分にある。
 齢73になってやっと、職業を道楽化し、趣味として「速記もまた愉し」の心境に達した、
かのような気がする。

 今にして思えば、私は幸せであった。
自分の信ずることを力いっぱいやり通すことができた。理解ある上司のもと、先生に恵まれ、
先輩、同僚、後進の一人ひとり、多くの方々から、善意と厚情によって支えられ、励まされ、
導かれて、やっと今日まで、速記生活50年、一筋の道を続けることができた。
 ほんとうにありがたいことである。ここに厚くお礼申し上げてペンをおく。

「思い出に託して」  6期 西来路秀男 氏


 私が所長になったのは、昭和22年5月3日で、いわゆる大量養成(生徒50人募集)の最初の年で
あった。
 28期で28名採用の実績もあったので、大量には大した不安もなく、技術教育の面でも、
28、29、30と三期連続符号の手ほどきを担当したので、多少の自信もあったが、施設(芝商の
間借り教室→議事堂の陸橋下→議員面会所階下→三年町校舎)、設備、備品、庶務、その他対外
交渉の面は、前例のないことばかりで、まごつくことが多かった。
 何しろ戦後間もない混乱期で、昭和22ー23年といえば、食糧難のひどい時、月に一度は
「食料休暇」と言う妙な臨機の措置をとらないと、授業の継続がおぼつかないありさまで、
みんな苦労した。

 入所資格も、六・三・三の教育新制度が整備するのにつれて、中学4年卒(31期)、中学5年
卒(32期)、新制高校卒(33期)と毎年あげていったが、生徒の年齢は各学年ともみな同じで、
学力もまちまちというので授業の内容をテストの結果に応じて臨時按配しながら教程を改変し
ていくのに苦心した。

 34期(昭和25年)になって応募者数は史上最高を記録した。受験出願者は779名だが、願書
受付数は1200にも達した。そのせいか、教室には活気があり、一種の気迫さえ感じられた。
先生の中には「今年の1年生の教室に入るのが恐い」という人がいたくらい。

 練習速度が最高に達したのは39期、3年生の研修科(9名)全員揃って4千字突破で、時の鈴木
事務総長から特別賞を授与された。45期は、私が符号の手ほどきをした最後のクラスである。
私は万感をこめて特別入念に授業をした。武部。小堀、佐藤(満)の三先生が、次期符号担当の
参考に傍聴された。どの期のことも、私は決して忘れない。よく憶えているが、その全部に
ついて語る余裕はない。以下、各期に共通の話題について若干ふれてみたい。

 「学級日誌」には皆音をあげたらしい。だが私は決してそれをやめようとはしなかった。
なぜか。まず文章を書くことを億劫がらない習慣をつけさせること。原稿の書き方(句読点・
改行・用字・様式)を具体的に覚えさせること。作文による表現力の育成、作品=商品のプロ
根性、職業人(速記者)としての意識の向上、社会参加の意義を自覚させることなど、欲張った
多目的のほかに、生徒各人の人物・性格・何を考え何を求めているか・クラス全体の空気など
よく知り、それに対処するためであった。
いくら文句を言われても、私はあえてこれを続行させた。

 生徒の方は、一週間か十日に一回の当番だが、私は毎日必ず各級の「日誌」を丹念に読ん
で、それぞれの文に、読後感ないし短評、時には反論など書き加えていくので、えらく忙しい
思いをした。それでもやめなかったのは、これが生徒との間の意見の交流パイプであり、
私自身これを自分に加えるムチとしていたからである。
 往年の生徒諸君、今になってみれば、君たちも、その必要性、当時の私の気持ちをわかって
くれるだろう。
 それかあらぬか、衆養の生徒が通信社や新聞社の採用試験を受けに行くと、いつもあとから
「作文力抜群、どういう教育をしているのか」と各方面でよく言われた。もちろん試験を受け
た生徒自身の資質、才能によることは違いないが、「日誌」の効能もいくらかあったのでは
ないか。

 中途退学者の防止には、ベストを尽くしたつもりであるが、結果は必ずしも十分であったと
は言えない。「養成所五十年史」の資料から、私の在任中の間だけピックアップすると次の
とおりである。

養成所創立六十周年記念にあたり、二名の方のメッセージを掲載し、
この頁の結びといたします。

◆創立六十周年
 昭和43年10月17日尾崎記念会館講堂において、衆議院事務局主催による速記者養成所創立
五十周年記念式典が行われた。半世紀ということもあり、小平衆議院副議長の来賓挨拶をはじ
め各方面からの参列者は236名にのぼった。

 そして十年後の昭和53年5月12日に60周年記念の催しが行われた。
準備段階で、同年2月に記録部側準備委員が検討を重ねた結果、行事は養成所限りで行う
こと、「五十年史」資料編の追補十年分を編纂、刊行することも決定。この方針を受けた具
体的な行事の実施方法を検討したところ、参議院速記者養成所に呼びかけ、初の合同記念行事
として開催。

 当日は衆議院速記者養成所第一教室を会場に充て、午前10時過ぎ、久保田参議院速記者養成所
所長の挨拶の後、東京速記士会福岡隆理事の「田鎖綱紀翁とその弟子たち」と題する記念講演が
一時間半にわたって行われ、会場を埋めた両院の生徒たち60余人に深い感銘を与えた。
 そして、宮崎所長の挨拶の後、生徒はグラウンドの芝生にて休憩・昼食。職員は福岡氏を
囲んで応接室にて両院記録部長差し入れの昼食をとった。
 午後はここ例年、春秋にわたって行われている衆参対抗ソフトボール試合を挙行。この試合
の勝者衆養チームには、六十周年を記念して優勝杯が贈られた。
なおこの優勝杯の製作費は、衆友会、参養会にて分担し、今後行われる対抗試合の勝者に贈ら
れることになっている。

 続いて、旧男子寮を女子寮に転用するための工事がおこなわれ、新入所の55期生を含め
11名の女子生徒が入寮した。
新男子生徒寮の完成に伴い、女子も寮生活の機会を得ることができたものの、入寮希望者
全員を収容するだけのキャパシティーはなく、この対策が引き続き検討されていたところ、
隣接の職員宿舎一棟(6畳一室、4.5畳ニ室)を第二女子生徒寮に転用することに決定。これに
より新入所の57期生5名を受け入れることができた。、
◆教育実習
 昭和46年2月20日、第65国会の衆議院予算委員会第一分科会における山本政広議員の国会
繁忙時対策に関する質疑で、知野事務総長から「繁忙期には校閲や研修生の応援を求めて会議
録の整備に十分努力する」旨答弁があったのを機に、にわかに生徒出務の機運が盛り上がり、
早くも同月23、24日両日、研修科進学予定の二年生(53期)9名が、予算委員会第一分科会に
応援出務することとなった。

 この時、議運担当者一人が20分間担当。その間に生徒二人が十分ずつ速記をとるという形式
で、一日一回の出番があった。養成所から初日に正副所長、翌日は副所長と教授一名が付き
添い、出務、録音、問い合わせ、反訳等について側面から指導に当たった。
 後に「教育実習」と呼ばれるに至ったゆえんである。議場に出て速記をとることは、初体験
の生徒には戸惑うことが多く、生徒の数も多いため、議運担当者、養成所側ともども大変多忙
な二日間であった。

◆授業時間割の特色
 全学年を通じ、反訳、実習等を除く速記術そのものの時間を増やしたことと、土曜日の
第1時限目を「ホームルーム」として、書き取りテスト及び自主練習(一年生前期は速記法)、
第2、第3時限目を体操に充てた。

53年度(62期) 応募者都道府県別分布
(ゼロ県 福井・奈良)

◆生徒の募集
 養成所の従来の生徒募集広告は、朝日、毎日、読売の朝刊に掲載したが、昭和45年度
募集からはNHKテレビ及びラジオ放送が加わった。
受験者にアンケートを行ったところ、昭和53年分では、NHKテレビ、ラジオが合わせて
22.3%に対し、69.2%が、受験雑誌、学校案内書等の紹介記事により養成所の存在を
知ったと回答している。
 なお、男子生徒確保対策として、「入所案内」とともに応募勧誘依頼状を、主として
全国の男子高校に発送した。昭和51年度には予備校も含め、その数は1,750通。

◆所在地
 東京都世田谷区上用賀4-32-3
3

【速記者養成所全景】
 右建物奥から、校舎、女子寮、舎監宿舎
 左三階建ての建物は男子寮